〈阿佐霧峰麿〉あの日の自分へ──壊れた心にも意味があった(第一章⑩)
壊れた日のことを思い返すと、
あの時の私は、ただ必死だった。
守りたい家族も、頼れる誰かもいなくて、
ただ「やるべきこと」を
淡々と積み重ねるしかなかった。
髪をかき上げた瞬間に触れた“地肌の温度”は、
たしかに衝撃だったけれど、
あれは悲劇の象徴ではなかった。
むしろ──
限界の中で、それでも生きようとした身体の
“最後のメッセージ”だった。
壊れた心にも意味がある。
壊れた瞬間は、敗北でも脱落でもなく、
これ以上無理をさせないための
「停止サイン」だった。
それを理解できるようになったのは、
ずっと後になってからだ。
私は当時、
過去を悔いていなかった。
自責もしなかった。
ただ前に進むしかなかった。
けれど、前へ進みすぎたせいで、
心はずっと
後ろの地点に取り残されたままだった。
あの日の私は、
“追いつく心”を持つ余裕がなかったのだと思う。
離婚、仕事の負荷、体の変化、未来への焦り。
ひとつひとつは“問題”ではなかった。
しかし、感情を処理する余白がないと、
小さな出来事でも心は置き去りになってしまう。
そして私は、
相談回路が育たなかった人生を歩んできた。
頼るという発想自体がなかった。
だから心の遅れにも気づけなかった。
でも──今なら分かる。
壊れた日の自分を救えるのは、
“未来の自分”だけだ。
時間は一方向に進むように見えて、
実は理解が追いついた瞬間、
過去へ向かって光が差すように“逆流”する。
あの日の自分が抱えていた孤独、
言葉にできなかった違和感、
飲み込んだままの痛み。
それらに触れられるのは、
いまの自分だ。
過去を責めなくていい。
悔やまなくていい。
ただ、あの日の自分が置き去りにした痛みを
ゆっくり拾い直せばいい。
「よく頑張ったな」
「無理していたのに、よく耐えた」
「誰にも言えなかったのは、弱さではない」
そんな言葉が、ようやく届くようになっていく。
痛みは、放置すればただの傷だ。
けれど──
言葉を与えられた瞬間、それは“力”に変わる。
あなたがずっと抱えている違和感や疲れがあるなら、
それは責めるべき過去があるからではない。
まだ名前がついていないだけの“痛み”がそこにいるからだ。
その痛みに言葉を与えたとき、
心は初めて回復の入口に立つ。
そしてこの“言葉にする”という行為こそ、
次の章で語る「痛みを言語化する技術」につながっていく。
壊れた日の意味に向き合うことは、
過去の自分と再会し、
未来の自分へ道をつくる行為だ。
あの日の私が教えてくれたことは、
静かで、強くて、そして優しい。
──壊れることは、誕生の前触れだった。
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言葉でも、声でも、対面でも──
その日のあなたに合う距離で。
そっと寄り添える場所として、
ここにいます。
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