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あぐり

「感動」を求めて彷徨ったあげく…

現代では多くの人が、「感動」をとても大切なものだと知っている。
物を持つことより、体験すること。
お金を稼ぐことより、心が震える瞬間。

そうした価値観は、たしかに一歩、成熟しているようにも見える。

だから人は、コンサートに足を運び、映画館に座り、講演会の椅子に身を預ける。
そこには確かに、感動が用意されている。
洗練された音、計算された演出、心を揺さぶる言葉。
それらが悪いわけではないし、無意味でもない。

しかし、ふと立ち止まって考えてみると、ある違和感が浮かび上がる。
それは、「感動を得ようとする姿勢」が、いつの間にか消費の構造と重なってはいないか、という問いだ。

資本主義は、人間の欲求を非常に巧みに刺激する。
かつては物欲がその中心だったが、今は「体験」や「感動」までもが商品として磨き上げられている。
刺激を与え、高揚させ、満たしたように感じさせ、やがて余韻が薄れる。
そして次の感動を、また外に探しに行く。

対象がモノから体験に変わっただけで、
「欠乏を前提に欲望を更新し続ける」という構造自体は、実はあまり変わっていない。

では、「感動する」とはどういうことなのか?

多くの人が、うすうす感じているはずだ。
人が心の底で望んでいるのは、イベントとしての感動ではなく、
「自分の人生そのものに対する感動」なのではないか、と。

自分の生き方に、納得しているか。
今日という一日を、自分の手で生きたと言えるか。
その問いに、静かに「はい」と頷けたとき、
胸の奥から、なんの根拠もない自負が立ち上がってくる。

それが、自ずと湧き上がる感動だ。

この感動は、外部から与えられない。
誰かに用意してもらうことも、買うこともできない。
むしろ、欲望が一度静まり、
評価や効率や承認から距離を取ったときに、ふいに姿を現す。

何気ない朝の光。
黙々と続けてきた仕事の手応え。
誰にも褒められない選択を、それでも選び続けた自分への信頼。
季節の移ろいに、説明できない懐かしさを覚える瞬間。

これらはすべて、「足りないもの」を埋めた結果ではない。
「すでに在るもの」と深く結び直されたときに生まれる感動だ。

ここに、日本人が古くから大切にしてきた感覚がある。
それが、大和心を宿した生き方――いわば「惟神の道」だ。

日本における神々は遠く高みに君臨する存在ではない。
水や火、土や風、日々の営み、その「あわい」に宿る。
特別な儀式の中だけでなく、
炊事、掃除、仕事、季節の変化といった、ごく普通の生活の中に息づいている。

だから感動もまた、特別な出来事として「起こる」のではなく、
暮らしが整い、心が澄んだときに、自然に「湧き上がってくる」。

現代人が不自然に生きていると言われる所以は、
この内側から立ち上がる感動の回路を、あまりに使わなくなったことにあるのかもしれない。
即効性のある刺激に慣れ、
すぐに意味づけし、すぐに評価し、すぐに共有する。

そのスピードの中では、
感動は外から注入されるものだと錯覚しやすくなる。

だが本来、感動とは探しに行くものではない。
整えた暮らしの中で、気づけば、そこに在るものだ。

日本人のある批評家は
人は理解するために生きるのではなく、感じきるために生きるのだ、という趣旨の言葉を残している。
この「感じきる」という行為が、
作品やイベントだけでなく、自分自身の生へと向けられたとき、
人生は静かに、生き生きと輝きはじめる。

平凡な日常でも、
単調な仕事でも、
人は感動できる。

それは、惟神という感覚が、
実はとても身近なところに息づいているからだ。

感動を外に求め続ける生き方から、
感動が内から湧き上がる生き方へ。

その転換こそが、
これからの時代に必要な「豊かさ」の核心なのかもしれない。

人生に感動できる人は、
もう多くを求めなくても、生きていける。
静かで、深く、長い充足の中で。

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