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あぐり

孤独はそんなに悪なのか?

孤独な人を、
社会から外れた、反社会的で病的な存在とする捉え方がある。

人と交わることを避け、愛想の一つも言えない。

孤立して気の毒な存在だと。

だが果たして孤独者はそのように社会から唾棄されるべき存在なのか?

社会が「正常」と呼ぶその均一な振る舞いこそ、
強制された同期の結果にすぎないのではないか。
孤独な人はその外側に立つ。

進化は数千年をかけて人間を育んだ。
その歴史の中で、群れに馴染まない者たちが、
一定数、必ず生まれ続けてきたという事実は、
偶然ではないはずだ。

問いは、「なぜ孤独な人が存在するのか」ではない。
「なぜ他の人々は、それほどまでに孤独を恐れるのか」なのだ。
自分自身と向き合うよりも、
毒性を帯びた人間関係に縋りつくほどに。

孤独な人は、
承認欲求という麻酔なしに神経を保つ術を学んだ。
静けさの中で精神を整え、
外界のノイズではなく、内側の律動に耳を澄ます。

ユングが言う「心理的自立」。
それは、無数の目に見えない裁判官――
世間・常識・空気――の判決に従わないということ。
自らの人生の手綱を、他者に明け渡さないということ。

多くの人は、自分で選んでいるつもりで選ばされている。
似た服、似た言葉、似た夢。
集団的無意識の水流に、
自覚のないまま漂い、同じ岸へと打ち寄せる。
世間体の良さを尺度にし、
仲間外れへの恐怖を羅針盤にする。

孤独な人は、このシステムの外部にいる。
反抗しているのではなく、
最初から、同じ土俵に立っていない。
仲間外れを脅しに使われても、
そもそもそこに価値を置かぬ者は、脅しに屈しない。

社会は劇場だ。
役割という仮面を貼り付け、破綻しないよう笑顔を維持する舞台。
孤独な人は客席から眺める。
仕掛けや構造、照明の角度まで見抜きながら。
その観察の中で育つのは、
社会的知性――参加ではなく観察によって得られる叡智。

誰かが家族の価値を説き、裏では不倫に疲弊しているとき。
友人と呼ばれる者が、集団の前で孤独者を裏切るとき。
職場で笑顔を向ける同僚が、背後でプロジェクトを妨害するとき。
否認の共同体が成立する。
見ないふりによって、均衡を保つ共同幻想が持続する。

孤独な人は気づいてしまう。
そして気づいた瞬間、合意から零れ落ちる。
厄介者と呼ばれる。
だが、それは排除ではない。
ただ、別の地平へと立つことだ。

孤独は寂しさと同義ではない。
寂しさは渇望――求めても得られない痛み。
孤独は静けさ――自分の声が、他の何よりも澄んで響く場所。

他者が刺激を求めて外へ走るとき、
孤独な人は、ひとりの部屋で落ち着きに満たされる。
無理やり社交へ連れ出されれば、
侵害のような感覚とともに、
思考の波形が乱されるノイズを聞く。

孤独は、隔絶ではない。
孤独は、自分自身との同盟だ。
演技から解放され、承認の貨幣経済から降りる。
内側の一貫性を守るという、
誰にも奪えない富への帰還だ。

―――――――――――――――
孤独な人は、進化の余白に生きている。
群れの外で、次の形を探している。
やがて時代が変わるとき、
彼らの在り方が、未来の雛形となるだろう。

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