空馬羽津呂
主語を私から外した日の話 ――私の時間は、止まってしまった
主語を私から外した日の話
空馬羽津呂
私の時間は、止まってしまった。
大げさな出来事があったわけではない。
何かを失ったわけでも、
決定的に間違えたわけでもない。
予定は動いている。
仕事も続いている。
人との関係も、表面上は変わっていない。
それなのに、
自分の内側だけが
ある地点から先へ進めなくなった感覚がある。
その日、私は、積極的に何もしないことを選んでみた。
何かを動かそうとせず、
ただそのままの感覚、そこにある迷いや停滞を感じる――
それもまた、ひとつのトレーニングだと思ったのです。
だから今日は、
少し変な書き出しをします。
空馬のことが嫌いな人には、
この先を読まないでほしい。
それから、
空馬のことが好きでたまらない人にも、
読まないでほしい。
絶対に読まないでください。
それでも読みたいと思った人は、
こっそり読んで、
「読んでいないフリ」をしてください。
これは、
共感してほしい話でも、
理解してほしい話でもありません。
今の私が、誰のためでもなく、自分の足元を確かめるために書いている記録だからです。
考えることは増えた。
配慮も増えた。
「ちゃんとやろう」という意識も、
むしろ前より強い。
それでも、時間だけが動かない。
私はずっと
「私」という主語で考えてきました。
私がどう感じるか。
私がどうするべきか。
主体的であろうとしていたし、
自分軸を大切にしたいと思ってはいたし、
責任から逃げているつもりもありませんでした。
少なくとも、自分ではそう思っていました。
けれどあるとき、
その「私」という主語が、本当に私のものなのかどうか分からなくなった。
なぜ、重たくなったのか。
今振り返ると、
私は「私」という主語で考えているつもりで、実はずいぶん多くのものを、自分の内側に持ち込んでいたのだと思います。
誰かが言い切れなかったんじゃないかと思う言葉。
誰かが抱えたまま、置き場を失ったのではないかと思う感情。
誰かが引き受けたくなかったのではないかと思う判断。
その誰かに「お願いします」と手渡されたわけでもないのに、気づけば私の手の中に持ち込んでしまっていた。
誰かの代わりに理解しているように感じ、
誰かの代わりに飲み込んでいるように感じ、
誰かの代わりに説明する側であろうと感じ、
自然と、そこに立っていた。
ある日、
少しだけ疲れていた日のことでした。
何か大きな決断をしたわけでも、
強い違和感があったわけでもありません。
ただ、
いつものように考えようとしたとき、
ふと手が止まりました。
この件について、
私は「どう思うんだろう」と考える前に、
「どう考えるべきなんだろう」と
自分に問いかけていることに気づいてしまったのです。
その瞬間、頭の中で使っていた主語が、
静かに音を立ててずれました。
私は私として考えているつもりで、
実は
「この立場なら」
「この役割なら」
という前提の上で
考えていました。
そこで、
試しに主語を外してみました。
「私はどう思うか」でもなく、
「誰かはどう思うか」でもなく、
ただ
「この状況では、何が起きているのか」
と眺めてみたのです。
すると、
それまで一つに固まっていたものが、
ゆっくりと分かれて見えてきました。
これは私の感情。
これは相手の課題。
これは組織の判断。
これは、まだ誰のものでもない問い。
そして、
少し怖くなりました。
これまで
「私」が引き受けてきたものを
手放したら、
私は何者になるのだろう、と。
役に立たなくなるのではないか。
冷たい人間になるのではないか。
責任から逃げたと思われるのではないか。
それでも、主語を外したまま立ってみました。
すべてを
「私」という箱に入れなくても、
世界は崩れませんでした。
むしろ、
崩れなかったことで、
私は少しだけ
自分の輪郭を取り戻したのだと思います。
このマインドは、
ときどき「裏切り」に遭います。
正確に言えば、
裏切られたのではなく、
勝手にそう感じてしまう瞬間があるのです。
でも、
私が悪いのでもありません。
相手が悪いのでもありません。
ただ、
「私」と相手の段階が違い、
あり方が違うだけです。
期待していたのは、相手ではなく、
私自身が作り出した役割でした。
同じ理解に立ってくれるはずだ、
同じ責任感を持つはずだ、
同じ速度で進むはずだ――
その前提が崩れた瞬間、
心は針で刺されたようにチクリと痛み、
裏切りの感覚が生まれます。
でも、主語を外して眺めると、
その針の先は、相手ではなく、
自分の思い込みに刺さっていたことに気づきます。
段階やあり方は、例外なく、どんな人とも同じにはなりません。
共感や共有はあっても、完全に同じにはならないのです。
たとえこれまで共に歩んだ盟友であっても、
相手の立場が変われば、発言も変えなければなりません。
そういうものなのです。
だからこれは、
相手を責める話でも、
私を責める話でもなく、
ただ、
役割と段階を取り違えないための、
静かな確認なのです。
今も私は、
主語を持ちすぎる日もあります。
そのたびに、
痛みや迷いも戻ってきます。
でも少しずつ、
立ち位置を調整することを覚えました。
誰かの代弁者ではなく、
私としてではなく、
役割として、段階として立つ感覚を。
そのために、
私は積極的に何もしないことを選ぶ日もあります。
物事を誇張も矮小化もせず、
そこにあるものをそのまま捉える――
それもまた、トレーニングの一つです。
痛みを怖がらず、ただそのまま感じることで、
少しずつ自分と世界の境界線を
はっきりさせることができます。
今日の気づきも、
昨日の失敗も、
そしてこれからの迷いも、
すべて次の私へとつながっていきます。
だから、私は
静かに主語を外しながら、私の輪郭を探し求めていきます。
空馬羽津呂







