あぐり
「このまま、何も告げずに彼と別れたほうがいいのでしょうか。」
何も告げずに去るという選択 ― 水地比 五爻が示す「別れの品格」
「このまま、何も告げずに彼と別れたほうがいいのでしょうか。」
この問いには、迷い以上のものが含まれています。
それは未練でも、怒りでもなく、誠実であろうとする心の揺らぎです。
本当は分かっている。けれど、どう振る舞うのが正しいのか分からない。
そんなとき、人は易に問いを立てます。
出た卦は、水地比(すいち・ひ)五爻。
水地比は「比す」、すなわち人と人が結び合うあり方を問う卦です。
孤立ではなく、癒着でもない。
互いの距離を尊重しながら、どのように関係を結ぶのか――
その根本を静かに示します。
中でも五爻は、卦の中心に位置し、
正しい関係性の核、もっとも成熟した結び方を表す場所です。
爻辞にはこう記されています。
「顕比。王用三駆、失前禽。邑人不誡、吉。」
王が狩りを行うとき、獲物を四方から囲い尽くすのではなく、
一方をあえて開けておく。
逃げるものは追わない。
それでも国は治まり、人々は不安を抱かず、結果は吉となる。
ここに描かれているのは、
支配しない強さ、縛らない誠実さです。
水地比五爻は、
「人を自分の都合で捕らえようとするな」
「去る者を追うな」
「しかし、誠を隠してもいけない」
と語りかけてきます。
では、「何も告げずに別れる」という選択は、正しいのでしょうか。
この卦は、単純な二択では答えません。
沈黙が必ずしも冷酷なのではなく、
言葉が必ずしも誠実とも限らないからです。
もし、言葉を発することで――
相手を試そうとしているなら。
理解させたい、分からせたい、後悔させたいという思いが混じるなら。
その言葉は、結びではなく拘束になります。
その場合、静かに去ることは、
相手を尊重する選択であり、自分を守る知恵でもあります。
一方で、
自分の心を整えるために必要な言葉もあります。
相手を責めず、結論を押し付けず、
「私はこう感じ、こう選ぶ」とだけ伝える言葉。
それは逃げ道を塞がず、関係を正しい位置に戻す行為です。
水地比五爻が示す理想は、
相手に選ぶ余地を残しつつ、自分もまた誠を失わないこと。
去ることは敗北ではありません。
別れは断絶ではなく、
本来あるべき距離へと戻ることなのです。
水は低きに流れ、形に執着しません。
無理に留めようとすれば濁り、
自然に離れれば、澄んでゆきます。
この卦が「吉」と告げているのは、
関係を終わらせることではなく、
終わらせ方の品格です。
後になって、自分自身を責めずにいられるか。
自分の心に、静かな肯定を残せるか。
その問いに「はい」と答えられる選択こそ、
水地比五爻が指し示す道なのだと言えるでしょう。
別れは、愛がなかった証ではありません。
むしろ、愛を乱暴に扱わなかった証として、
心の奥に、澄んだ余韻を残してくれるのです。







