あぐり
人間にとって時間とは…?ミヒャエル・エンデ『モモ』を読む
時間とは何か、考えたことがあるだろうか。
ミヒャエル・エンデの「モモ」という童話はそんな時間を扱った物語。
舞台はある街の円形劇場跡。そこにある日、一人の少女がやってきます。彼女の名前はモモ。年齢も素性も不明。
しかし彼女には特別な才能がある。「人の話をほんとうに聴くこと」
助言も説教もなし、ただ静かに、深く、相手の言葉の奥に耳を澄ませる。
その時間の中で、人々は自分自身の答えに気づいていきます。
まるで枯れていた井戸の水が復活するように。
ところが街には「灰色の男たち」が現れます。
彼らは「時間を貯金する」ことを人々に教えます。無駄話をやめ、効率をあげ、楽しみを削り、時間を節約するのだ、と。
しかし、時間を貯金して貯めようとすればするほど、人々は忙しくなり、冷たくなり、笑わなくなります。時間は増えたはずなのに、人生は干からびていく…。
「合理性」「効率性」を掲げる「灰色の男たち」は美徳を説いているように思われてしまうのが、恐ろしいところ。
時間とは節約するものなのか、それとも生かすものなのか?
作中で時間を司るマイスター・ホラが語る場面があります。
人の時間はその人の心の中にしかない、と。
時計の時間は均一ですが、体験の時間は伸びたり縮んだりする。
楽しい時間はあっという間。仲間や友達とおしゃべりしていたら、いつの間にか終電近くになっていた、なんてことは誰しも経験していることでしょう。
逆に、先生や、上司のつまらない説教に退屈していると、時計を眺めていると秒針の動きが遅いように感じられたりします。
産業革命以降、人類は時間を「直線」として扱うようになりました。
過去→現在→未来
効率→成長→拡大
その速度に、私たちはいつから疑問を持たなくなったのでしょう。
時計の針に刻まれて生きる人生。
モモという少女は何も生み出しません。お金も作らない。成果も出さない。
けれども彼女は、人間を「本来の自分」に戻します。
革命ではなく回復をもたらす者。
奪われた時間を取り戻すのではありません。
人々が「自分の時間を感じる力」を思い出させてくれるのです。
時間はむしろ花のようにひらく…。
花は強制して咲かせることはできません。
早送りもできないのです。
蕾には蕾の時間がある。
時間とは外に流れているのではなく、私たちの内側に拓かれていくもの…。
スマートフォンの通知、効率化、最適化、タイムパフォーマンスという言葉。
現実の社会でも「灰色の男たち」は姿を変えて生きています。
この物語を読むと、時間は管理するもの、節約するものではないことを思い出します。
今、この一瞬一瞬の永遠の今を味わうことの大切さに気がつきます。
時間を味わうことは、内なる魂の大地に種を蒔き育てていくようなものではないかと…。
考えてみてください。
あなたの一日は時計の針によって切り取られるものでしょうか?
時間を節約することは、人生を豊かにすることと同義ではないはずです。
あなたの中にも、モモのように静かに耳を澄ませる力が、まだ眠っているかもしれません。
静かに耳を澄ませるとき、あなたの時間はもう育ち始めています。







