〈阿佐霧峰麿〉責めなかった心──痛みを後回しにしてきた生き方の代償
円形脱毛症になったと聞くと、
多くの人は「自分を責め続けていたのではないか」
と想像するかもしれない。
けれど、当時の私は違っていた。
私は「全部自分のせいだ」と思い込むタイプではなかった。
むしろ、自分を責めるという発想そのものが、
ほとんど存在しなかった。
それは強さではなく、生き方の癖だった。
私は長いあいだ、淡々と前に進むことだけを
“正解”として生きてきた。
立ち止まる理由も、
立ち止まる想像もなかった。
多少きつい日が続いても、
「いま頑張ればあとが楽になる」
そんな単純な論理で、
走り続けていくことが当たり前だった。
だから、円形脱毛症の発覚でさえ、
私の心は自責へ向かわなかった。
ショックはあったが、
「弱り目に祟り目だな」
その程度の理解で、
また翌日の仕事へ向かっていた。
しかし、それは余裕ではなく、
自分の心が何かを“感じる”前に、
次の行動が押し寄せてくる生き方
だった。
止まれば崩れる
と思っていたわけではない。
もっと単純に、
止まるという発想自体がなかった。
独り身に戻っていた私は、
無理をしても壊れるのは自分だけで、
誰に迷惑をかけるわけでもない。
だから、止まる理由もなかった。
こうした生き方は、
燃費の良いようでいて、
心には大きな負荷をかける。
本来なら、壁にぶつかった時に生まれる
「これでいいのか?」
「どこかで無理をしているのでは?」
という内省の機会が、
私の中には育ちにくかった。
疲れや違和感を抱えても、
それを自分で受け止める前に、
明日のやるべきことがやってくる。
結果として、
自責も反省も“置き去り”のまま前へ進んでしまう。
これは一見すると前向きだが、
心が静かに壊れていく時には、
致命的な欠点になる。
自責という感情が生まれないと、
今何が苦しくて、
どこが限界なのかを把握しづらい。
無理に気づけないまま、
限界を見誤ってしまう。
私がまさにそうだった。
静かに疲れが積もり、
心が削れていっても、
私は自分を責めることも、
誰かに助けを求めることもしなかった。
だからこそ、
「本当はもう限界に近い」
という事実にも気づけなかった。
壊れ方は、人によって違う。
泣き続ける人、自責に沈む人、
そして私のように“前に進みすぎて、
自分の状態に気づけなくなる人”もいる。
もし今、同じように
自分を責めるという発想すらなく、
ただ前に進んでしまっている人
がいたら、一つだけ伝えたい。
自責がないのは強さではない。
あなたの心が“痛みを後回しにしている”
サインかもしれない。
心が壊れる時、
涙だけが証拠ではない。
沈黙や、鈍感さや、
ただ進み続けるという硬さもまた、
静かな崩れ方のひとつだ。
その違和感に名前がついた瞬間、
心はようやく回復の入口に立つ。
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言葉でも、声でも、対面でも──
その日のあなたに合う距離で。
そっと寄り添える場所として、
ここにいます。
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