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あぐり

「闇堕ち」は誰にでも訪れる…?!!

「闇堕ち」とは、ある特別な人間だけに起こる例外的な事件ではない。
むしろ、人として生きるかぎり、誰の胸の奥にもひそやかに息づく影の働きである。

成功、称賛、安心、幸福。
それらはすべて祝福でありながら、同時に闇への入口でもある。
人は調子が良いときほど、気づかぬうちに心の重力を増していく。
自分は特別だ。
自分は正しい。
自分は、他より一段高い場所に立っている――
そうした感覚が、静かに、しかし確実に、内側で質量を持ちはじめる。

その重力が限界を越えたとき、心の中心は歪み、
人はブラックホールのように内側へと崩れていく。
それが「闇堕ち」と呼ばれる現象だ。

その始まりは、決して劇的ではない。
むしろ、淡く、穏やかで、気づきにくい。

誰かの助言を、素直に受け取れなくなる。
称賛を、ありがたいものではなく当然のものとして受け取るようになる。
批判に対して、耳ではなく牙で応じようとする。

「私がいなければ成り立たない」
「自分の力で、ここまで来た」
「理解できない相手が悪い」

これらの思考は、心を守る鎧のように見える。
しかしその鎧は、同時に呼吸を奪う。
守っているつもりで、心の可動域を狭め、
気づけば、鎧ごと深みに沈みはじめている。

この闇の正体は、特別な悪意でも、邪悪な魔力でもない。
自己防衛本能が過剰に膨らみ、
自分の安心を保つために、他者を「管理し」「支配し」はじめること。
それも多くの場合、正義の名の下で行われる。

ルールに従わない相手が悪い。
客の理解力が低すぎる。
未熟な者が足を引っ張っている。
どれも一見、もっともらしい。
そして成功の只中にいる人の周囲には、
それに異を唱える声は、いつの間にか消えている。

人は誰しも、自分を守るために戦っている。
だがその戦いが過ぎると、
守る対象は「自分」だけになり、
他者は次第に、目的のための道具のように見えはじめる。

この瞬間、闇は始まる。

だから「闇堕ち」は、弱さの証ではない。
むしろ、成長しているとき、評価されているとき、
幸福が訪れているときほど、起こりやすい。
光が強いほど、影が濃くなるように。

重要なのは、この罠を
「自分には関係ない」と切り捨てないことだ。

闇堕ちは、悪人が落ちる穴ではない。
善良な人ほど、努力家ほど、誇り高い人ほど、
足元の小石につまずきやすい。

その小石に気づけるかどうかで、未来は変わる。

では、どうすればよいのか。
闇に落ちないための鍵は、ただひとつ。
自分を観る視線を、手放さないことだ。

成功の中で、自分を観る。
褒められている最中に、内側を観る。
幸福の只中で、なぜ自分は幸福を感じているのかを観る。

観る者としての自分を失わないかぎり、
心は重力に呑まれない。

謙虚さとは、卑下することではない。
それは「観測者であり続ける姿勢」だ。
祈りとは、誰かにすがる行為ではない。
それは、自分の傲慢をそっと地面に置く、日々の所作である。

「闇堕ち」は、誰にでも起こる。
だからこそ、人は誰にでも、光を取り戻せる。

光は、闇の遠くにあるものではない。
闇を見つめるその目の奥に、すでに灯っている。

自分が闇の入口に立っていると気づいた、その瞬間。
そこから、再生は始まる。

人は、気づいた場所から、やり直せる。
いつでも。
今からでも。

「闇堕ち」とは、誰しもが出会う罠。
そして、罠だと気づいた瞬間、
それはただの道になる。

その道を、どう歩くか。
光か、闇か、ではない。
自分を見失わない歩き方そのものが、
未来を、静かに形づくっていく。

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