みねまろ会議3|なぜ私たちは、自分の人生を選べなくなるのか――「選ばなくていい世界」に慣れすぎた結果
少し前の私は、
自分の人生を引き受けきれない人間だった。
なにか大きな決断を前にすると、
頭を強く殴られたような感覚に襲われる。
考えようとすると、思考が崩れる。
逃げたい。
なかったことにしたい。
そんな自分が、
確かにそこにいた。
不思議だった。
自分で選んだはずの道だった。
興味もあった。
時間も使った。
環境も整えた。
それなのに、なぜか足が止まる。
「なぜ、踏み出さないのか」
「なぜ、結果を出そうとしないのか」
当時の私は
「自分が弱いから決断できない」
「覚悟が足りないから進めない」
と思っていた。
でも今なら、
長く“選ばなくていい環境”にいた人が、
初めて自分の人生を引き受けようとしたとき
必ず起きる反応だと分かる。
たとえば、
長年会社員として働いてきた人が、
独立や転職を考え始めたとき。
やりたい気持ちはある。
能力も、最低限はある。
でも、決断の瞬間になると、
必ず頭をよぎるものがある。
「給料」という安心。
頭では分かっている。
それが絶対の安定ではないことも、
幻想に近いことも。
それでも、
毎月決まった日に振り込まれる数字は、
思っている以上に強力だ。
決められた枠の中で、
大きな失敗さえしなければ報酬が出る。
代わりはいくらでもいる構造の中で、
時間を差し出す代わりに、
判断を手放す。
私は、そういう世界に
長いあいだ身を置いていた。
この感覚は、
もはや価値観ですらない。
身体に染みついた癖だ。
「失敗しないこと」を
最優先にする思考。
保険をかけ、
さらに保険を重ねる生き方。
石橋を叩いて、
叩いて、
それでも渡らない。
それを、何年も続けていた。
だから、
「自分で選び、責任を持つ世界」に立ったとき、
心が悲鳴をあげた。
その世界は、
失敗する前提でしか進めない。
間違えながらでなければ、
辿り着けない。
自分の欠点と向き合い、
一つずつ直しながら進むしかない場所だ。
失敗を避けることに
全力を注いできた人間にとって、
それは恐怖だった。
当時の私は、
その恐怖を「現実的な判断」
だと思い込んでいた。
でも今なら分かる。
あのとき私がやっていたのは、
選択そのものを拒否することだった。
自分の人生なのに、
誰かに決めてもらおうとしていた。
だから苦しかった。
はっきり言えることがある。
人は、
自分で選ばない限り、
どんな道を選んでも納得できない。
安全そうに見える選択も、
正しそうに見える判断も、
自分の手で引き受けていなければ、
必ず途中で立ち止まる。
もし今、
決めきれずに苦しんでいる人がいるなら、
それはあなたが弱いからではない。
長いあいだ、
「選ばなくても生きられる環境」に
慣れすぎただけだ。
選ぶことは、
才能でも勇気でもない。
慣れの問題だ。
小さくてもいい。
自分で決め、
自分で引き受ける経験を重ねること。
それを始めた人から、
迷いは少しずつ減っていく。
昔の私は知らなかった。
でも今なら、
はっきり分かる。
選べない時間は、
失敗ではない。
「自分の人生を取り戻す準備期間」だった。
そう思えるようになっただけでも、
あの時間には意味があった。
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