人生の判断を、代わりに引き受けないと決めた(最終章②)
占い師として立つとき、
私の中には最初から、
ひとつだけ強く決めていたことがあった。
――人生の判断を、代わりに引き受ける人にはならない。
それは逃げでも、曖昧さでもない。
これまでの人生を通して、
どうしても外せなかった前提だった。
私自身、
誰かに答えを与えられて
救われたことは一度もない。
正しそうな言葉を聞いて、
一時的に安心することはあった。
けれど結局、
また同じ場所で迷っていた。
なぜなら、その答えは
私の構造を通っていなかったからだ。
この感覚は、
少し違う例えを出したほうが
分かりやすいかもしれない。
たとえば、
人の予想に乗って馬券を買い、外したとき。
懐は痛む。
後悔も残る。
しかもそこには、
「自分で考えていない」という空白が残る。
これは、ただの失敗ではない。
お金を失い、納得もできず、
次に活かす材料すら残らない。
一方で、自分なりに情報を集め、
展開を考え、条件を洗い出し、
納得するところまで分析してから
買った馬券が外れた場合。
結果は同じ「外れ」でも、
感覚はまったく違う。
悔しさはある。
だが同時に、
「ここが甘かった」
「次はここを変えよう」と、
具体的な改善点が残る。
その失敗は、
身銭を切った“勉強”として
積み上がっていく。
つまり問題なのは、
当たるか外れるかではない。
自分で選んだかどうかだ。
人生の選択も、
まったく同じだと思う。
誰かの答えに乗って決めた選択は、
うまくいかなかったとき、
自分を二重にも三重にも苦しめる。
「失敗した」という痛み。
「人の言葉を信じた」という後悔。
そして、
「次はどうすればいいのか分からない」という空白。
他人の判断に人生を委ねる選択というのは、
この回収不能な失敗を、
静かに積み上げていく行為でもある。
その場では楽になる。
けれど、その楽さが
次の判断を遠ざけてしまうことがある。
占いが、
そういう使われ方をすることだけは、
選びたくなかった。
占いは、
当たり馬券を渡すためのものではない。
選んだあとも、
自分の足で立っていられるか。
次につながる選び方を身につけること。
それができて初めて、
人生は学習するものになる。
人生の選択で本当に苦しいのは、
間違えたことではない。
納得できない選択をしてしまったことだ。
だから私は、人生の判断を
代わりに引き受ける人にはならないと決めた。
それは冷たさではなく、
その人の人生を本気で尊重するための選択だった。
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