ロザリン
不安を主語にしないために ──それでも私たちは、なぜ愛を疑ってしまうのか
人は、
受けた愛と、与えられなかった愛を比べながら、
少しずつ「自分が愛する形」をつくっていきます。
何をしてもらえたのか。
何をしてもらえなかったのか。
何が嬉しく、何が痛みとして残ったのか。
その差分が、
「私は、こうはしたくない」
「私は、これはしてあげたい」
という倫理になります。
だから本来、
欠けていた愛は歪みではありません。
設計図です。
問題は、
愛が十分だったかどうかは、
事実ではなく感覚で決まるという点にあります。
たとえ周囲から
「それは十分だった」と言われたとしても、
自分がそう思えなければ、
疑念は消えません。
愛は量ではなく、
納得できたかどうかで決まります。
そして現代は、
その「納得」を非常に得にくい社会です。
いま私たちは、
あまりにも多くを見ています。
他人の家庭。
他人の恋愛。
他人の愛情表現。
他人の正解。
可視化されすぎ、
多様化されすぎ、
隣の芝生が青すぎる。
その結果、
自分が受けた愛は足りなかったのではないか
私は十分に選ばれていなかったのではないか
という疑念が育ちます。
同時に、
親が悪かったのではないか
恋人が冷たいのではないか
社会の構造がおかしいのではないか
という他責も育ちます。
自己肯定感を下げながら、
同時に他責も育てる構造。
これが、
現代の愛が消耗しやすい理由の一つです。
ここで多くの人は、
「不安な自分」を問題にし始めます。
しかし私は、
不安を人格の中心に置くことには、
強い違和感があります。
不安は、
あなたの本質ではありません。
それは、
状況に対する反応です。
そしてその反応は、
この世界の、心の距離の取り方が
どこか冷たすぎることを、
あなたが察知している証拠でもあります。
よく言われます。
不安になるのは弱いから
自立できていないから
愛着に問題があるから
ですが、
本当にそうでしょうか。
私は、
不安な人を
「救われる側」だとは考えていません。
不安な人は、
問いを投げている側です。
この距離感は正しいのか。
この扱い方は、人を生かしているのか。
この社会は、少し冷たすぎないか。
その違和感に、
きちんと反応しているだけです。
距離を取る人には、
距離を取る理由があります。
「自分が近づくと、
相手を壊してしまうかもしれない」
そうした記憶を、
心のどこかに持っている人もいます。
一方で、
距離を縮める人は知っています。
無関心が、人を壊すということを。
だから声をかけます。
だから気にかけます。
だから、つながろうとします。
どちらも、
人を傷つけないための選択です。
それでもこの二つが出会うと、
善意はすれ違います。
配慮は重さに見え、
誠実さは拒絶に見える。
ここに悪者はいません。
あるのは、
善意の向きの違いだけです。
だから私は、
不安を否定しません。
しかし、
不安を主語にもさせません。
不安を
「私そのもの」にしてしまえば、
人生はいつまでも
反応に支配されてしまいます。
重要なのは、
その反応を持ったまま、
どう愛するかを選び直すことです。
どんな愛を受けたかよりも、
どんな愛を引き受けると決めたか。
人は、
受け取った愛ではなく、
引き受けた愛の形で生きていきます。
不安になる感受性を、
相手を動かす道具にしてはいけません。
しかし、
なかったことにもしてはいけません。
その違和感を抱えたまま、
どう関わるかを考える。
それが、
大人の愛だと考えています。
現代は、
怯えを尊重と呼びやすい時代です。
傷つかない距離。
踏み込まない優しさ。
期待しない成熟。
それらは確かに、
一つの知恵です。
しかし同時に、
関わる勇気を放棄する言い訳
にもなり得ます。
誰も深く関わってくれなかった、
という感覚が残る人がいるのは、
そのせいかもしれません。
優しくされなかったわけではありません。
否定されたわけでもありません。
ただ、
踏み込まれなかったのです。
私は、
その痛みを美化しません。
しかし、
恥じる必要もないと考えています。
その痛みがあったからこそ、
無関心の残酷さを知り、
人を一人にしない愛を
引き受けようとする人がいるからです。
不安は、
弱さではありません。
しかし、
人生の舵を握らせるものでもありません。
違和感として受け取り、
問いとして持ち、
それでも自分の足で
どう愛するかを選ぶ。
私は、
そういう人を信頼しています。







