あぐり
受動態で語られる人生――選ばないことを選び続けた者に、未来は与えられるのか
坎の水は、なぜ満ちないのか
――受動態に生きる人へ贈る、易の冷たい慈悲
世の中には、まるで「被害者意識増幅装置」を携えているかのように生きる人がいる。
彼に振られた。
上司に怒られた。
友達にハブられた。
語られる出来事は、どれも起きた事実なのだろう。
しかし、そこには奇妙な共通点がある。
なぜ振られたのかは語られない。
どんな言葉が交わされたのかは曖昧なまま。
友人関係が崩れた理由も、霧の中に置かれている。
すべてが受動態で語られ、
主語だけが、どこにもいない。
「どうしたらいいでしょうか」と問われ、易を立てる。
現れたのは、坎為水(かんいすい)五爻。
坎。
落とし穴。
水の溜まる困難。
抜け出しにくく、足場の定まらぬ場所。
しかも坎が重なる。
坎坎。
穴の中に、さらに穴がある。
だが五爻の辞は、意外なほど静かだ。
「坎不盈。祗既平。無咎」
――水は満ちず、すでに平らか。咎めなし。
ここに、この卦の怖さがある。
水は溢れていない。
破局には至っていない。
感情も、人生も、決定的に壊れてはいない。
しかし同時に、水面は平らかだという。
波立ちも、うねりもない。
怒りもない。
問いもない。
なぜ、という言葉すら、立ち上がらない。
それは「安定」なのだろうか。
それとも――
感じることを、やめてしまった状態なのだろうか。
坎為水五爻は、救済の爻ではない。
だが断罪の爻でもない。
だからこそ、ここには「无咎」と記されている。
咎めはない。
まだ、罪にはならない。
しかしそれは、許されたという意味ではない。
猶予を与えられているという意味だ。
水が満ちないのは、幸運だからではない。
水を溜める器が、閉じているからだ。
問いを立てない。
関係性を直視しない。
自分が何を選び、何を避けてきたのかを語らない。
その結果、水は溢れない代わりに、
どこへも流れていかない。
五爻は、坎の極点である。
これ以上、同じ構図を繰り返せば、
次は六爻――
もはや「言葉」では済まされない段階へ進む。
だから易は、ここで止めている。
静かに、しかし確実に。
この卦が問うているのは、
「運が悪いのか」「人が悪いのか」ではない。
問いは、ただ一つ。
あなたは、自分の足元の穴を見ようとしているか。
受動態の人生とは、
何もしていない人生ではない。
むしろ、選ばないことを選び続けた人生である。
坎為水五爻は、
溺れている者を引き上げる手ではない。
それは、
足元を照らす、冷たい灯りだ。
この灯りの下で、
穴の形を見極めることができた者だけが、
次の卦へ進む。
水は、流れるためにある。
だが流れ出す前に、
自分が立っている場所を知らねばならない。
坎の水は、
そのことを、決して優しくは教えてくれない。
だが、嘘もつかない。
それが、易の慈悲である。







