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あぐり

『どうせ私なんて』という思い癖を解く

人はときに、
幸いが静かに差し出されているその瞬間に、
自らの手を引っ込めてしまう。

返事が来ている。
誘われてもいる。
現実は、確かにこちらへ向かって歩み寄っている。
それにもかかわらず、胸の奥から湧き上がるのは、
「どうせ自分など」という、古く冷たい声だ。

雷水解・四爻は、
まさにその瞬間を照らし出す爻である。

雷水解という卦は、
もともと「難がほどけていく時」を示す。
嵐の後、空気が洗われ、
閉ざされていた道に再び光が通う。
だが、この卦は単純な楽観を許さない。
解けるとは、自然に消えることではない。
解くべきものを、見極めて解くことなのだ。

四爻は、その核心に立つ。
爻辞はこう告げる。

――解而拇。朋至斯孚。
――拇を解け。朋至りて、ここに孚あらん。

拇とは、足の親指である。
身体を前へ運ぶとき、無意識に地を踏みしめる場所。
最も身近で、最も頼りにしてきた部位。
それは象徴的に言えば、
長年寄り添ってきた思考の癖、
自己否定という名の馴染みすぎた友人のようだ。

「先に自分を下げておけば、傷つかずに済む」
「期待しなければ、失望もしない」
そうした思考は、敵ではない。
むしろかつては、身を守るために必要だった。
だからこそ、それは情を伴い、手放しがたい。
易がこれを「腐れ縁」と呼ぶ理由は、そこにある。

しかし、時は変わる。
その結びつきは、もはや守りではなく、
一歩踏み出すたびに足を取る縄となる。
四爻は言う。
それを断て、と。
だが、叩き壊せとは言わない。
解け、と静かに促す。

解くとは、否定することではない。
責めることでも、消し去ることでもない。
ただ、同一化しないという選択である。

ネガティブな思いが浮かぶ。
それ自体は止められない。
だが、その声に人生の舵を渡す必要はない。
「これは私の本心ではない。
 かつて私を守ってくれた、古い癖の残響だ」
そう位置づけるだけで、
思考は“命令”から“現象”へと変わる。

雷水解・四爻が求めているのは、
感情を制圧することではない。
判断基準を、情から義へ移すことである。

義とは、冷酷な理屈ではない。
事実に足を置くという誠実さだ。
返事が来ているなら、それを事実として受け取る。
誘われているなら、未来を否定せず応じる。
不安が消えるのを待たない。
不安を抱えたままでも、現実の足場に立つ。

そうして初めて、
「朋至りてここに孚あらん」という言葉が生きてくる。

朋とは、外から現れる誰かだけを指さない。
自分の内に、信じてよい感覚が戻ることでもある。
疑わずに好意を受け取り、
拒絶せずに関係を育てる余白。
その静かな信が、ここに生まれる。

苦しさは、失敗の兆しではない。
むしろ、古い守りを脱ぐときの違和感だ。
長く履いてきた靴を脱ぐとき、
一瞬、裸足の心許なさを覚えるように。

雷水解・四爻は告げている。
もう、その親指に過剰な力を込めなくていい。
足はすでに前を向いている、と。

世界は、思っているよりも
静かに、誠実に、こちらを待っている。
解くべきものを解いた先に、
本来の歩幅で進める道が、
確かに用意されている。

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