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神の座に理性を据えた男 ドストエフスキー『悪霊』におけるキリーロフ

ドストエフスキーの『悪霊』の中でも、キリーロフという人物は、ひときわ異様な光を放っています。

彼は絶望して死ぬのでも、人生に疲れ果てて死を選ぶのでもありません。

キリーロフにとって自殺とは、ひとつの思想の完成です。
自分の死によって、人間が神になれることを証明しようとする行為なのです。

そして物語の中で彼は、自分が直接犯していない罪を背負う形で死んでいきます。
その姿は、どこかキリストを思わせます。

罪なき者が、他者の罪を背負う。
自らの死によって、何かを証明しようとする。
その構図だけを見れば、キリーロフの死には、確かにキリストの受難を思わせるものがあります。

しかし、ドストエフスキーはそこに、非常に深いねじれを仕込んでいます。

キリストは、神への従順と、人間への愛によって罪を背負いました。
けれどキリーロフは、神の不在を証明し、人間が神になるために、自らの死を差し出します。

ここに、決定的な違いがあります。

キリストの十字架には、愛があります。
赦しがあります。
神への信頼があります。
そして、その先には復活があります。

一方、キリーロフの死には、愛よりも証明があります。
祈りよりも理論があります。
信頼よりも意志があります。

彼は、神を信じない人間が、死への恐怖を完全に乗り越えたとき、その人間こそ神になるのだと考えます。

人間が死を恐れるのは、神がいるからだ。
死を恐れるかぎり、人間は自由ではない。
ならば、自ら死を選ぶことができる人間こそ、完全に自由である。
その自由を証明したとき、人間は神になる。

これが、キリーロフの思想です。

ここで彼が神の代わりに据えたものは、理性であり、意志であり、自己決定です。

つまりキリーロフは、神を否定したあとにできた空白へ、人間の理性を置いたのです。
人間の意志を置いたのです。
自分で自分の意味を決める力を、神の座に据えようとしたのです。

けれど、ドストエフスキーが見つめていたのは、その危うさでした。

理性そのものが悪いのではありません。
理性は、人間に与えられた尊い力です。

しかし、理性が愛から切り離されたとき。
畏れから切り離されたとき。
神聖なものへの謙虚さを失ったとき。

理性は、人間を救う光ではなくなります。
人間を裁き、解体し、破滅へ向かわせる刃になります。

『悪霊』に描かれている恐ろしさは、まさにそこにあります。

神を否定した人間は、何も信じなくなるのではありません。
むしろ、別のものを神にしてしまう。

理性。
革命。
国家。
科学。
正義。
自由。
思想。
自我。

神を失った人間は、その空白に別の絶対を置きます。
そして、その新しい神のために、人を裁き、人を殺し、自分自身までも犠牲にしていきます。

キリーロフは、その中でももっとも純粋な人物です。
彼はピョートルのように、他人を操ろうとしているわけではありません。
権力を得たいわけでも、誰かを支配したいわけでもありません。

むしろ彼は、あまりにも純粋に、自分の思想を生き切ろうとします。

だからこそ、彼の死は恐ろしいのです。

俗悪な悪人が破滅する物語ではありません。
純粋な人間が、理性の結論を最後まで生きようとして、自分自身を破壊してしまう物語なのです。

キリーロフは、キリストに似ています。
しかし、キリストそのものではありません。

彼は、キリストの反転像です。
あるいは、神なき時代に現れた、偽のキリストです。

キリストは、自らを低くして十字架にかかりました。
キリーロフは、自らを神にまで高めるために死にました。

キリストは、愛によって罪を背負いました。
キリーロフは、思想によって罪を背負いました。

キリストは、神への信頼によって死を超えました。
キリーロフは、自分の意志によって死を超えようとしました。

外側の形は似ています。
けれど、内側はまったく違います。

ここに、ドストエフスキーの近代批判があります。

神を失った人間は、自由になるのか。
理性を神の座に据えた人間は、本当に救われるのか。
自分の意志だけで、死の恐怖を超えることはできるのか。

キリーロフは、その問いを自分の命で実験した人物です。

けれど彼の死には、復活がありません。
救済もありません。
ただ、思想の果てに残された、冷たい沈黙があります。

それは、十字架のようでありながら、十字架ではありません。
殉教のようでありながら、殉教ではありません。

そこにあるのは、神の不在を埋めようとして、人間の理性が神の真似をした姿です。

けれど、人間は神の代わりにはなれない。
理性は信仰の代わりにはなれない。
意志は愛の代わりにはなれない。

キリーロフの悲劇は、そこにあります。

彼は愚かだったのではありません。
むしろ、あまりにも真剣でした。
あまりにも純粋でした。
あまりにも誠実に、神なき世界の結論を生きようとしたのです。

だから彼の死は、単なる狂気として片づけることができません。

それは、神を失った時代の魂が、どこまで遠くへ迷い込んでしまうのかを示す、暗い預言のようでもあります。

『悪霊』という題名は、思想に取り憑かれた人間たちの物語を指しています。
けれど、その悪霊とは、単に外から人間に取り憑くものではないのかもしれません。

愛を失った理性。
畏れを失った自由。
神を失った正義。
祈りを失った思想。

それらが人間の内側で増殖したとき、理想は悪霊になる。

キリーロフの自殺は、その最も静かで、最も痛ましい象徴です。

彼は神になろうとしました。
けれど、神になることはできませんでした。

彼は死を超えようとしました。
けれど、そこにあったのは復活ではなく、沈黙でした。

その沈黙の中で、ドストエフスキーは問いかけているように思えます。

人間は、神なしに生きられるのか。
理性だけで、魂は救われるのか。
愛を失った思想は、人間をどこへ連れていくのか。

キリーロフの死は、その問いを今もなお、私たちの胸に突きつけています。

少し文芸評論寄りに、静かで重たい読後感が残る形にしました。もっと神学寄り、あるいはユング心理学寄りにも展開できます。

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