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あぐり

「私なんてまだまだです」という鎧 ――謙虚さの顔をしたプライドについて

「あ〜、私なんて全然です〜」

「本当に〇〇さんってすごいですよね〜」

「私なんか、まだまだです」

こういう言葉を、よく口にする人がいる。

もちろん、本当に相手を尊敬して言っていることもある。

自分の未熟さを自覚しているからこそ、素直に教わろうとしている人もいる。

だから、この言葉そのものが悪いわけではない。

ただ、ときどき妙な違和感を覚えることがある。

やたらと人を褒める。

自分を必要以上に低く見せる。

「会えて嬉しいです」

「本当にすごいです」

「私なんて足元にも及びません」

と相手を持ち上げる。

ところが、

では自分もやってみるのかというと、やらない。

知らないことを質問するのかというと、しない。

注意されたら素直に直すのかというと、傷つく。

失敗したらもう一度挑戦するのかというと、

「私には向いていないんだと思います」

と引いてしまう。

そこで私は思う。

それは本当に、

謙虚なのだろうか。

むしろ、

「私はまだ評価の土俵には上がりません」

という宣言なのではないか。

「私なんて」は、とても便利な言葉である

「私なんてまだまだです」

という言葉には、不思議な力がある。

先に自分を低く置いてしまえば、

本気で評価されなくて済む。

できなかったときも、

「だって、私はまだまだですから」

と言える。

失敗しても、

「初心者なので」

と逃げ道が残る。

責任ある場所へ出なくてもいい。

誰かと対等に並んで、自分の実力を試されなくてもいい。

つまり、

自分を下げているように見えて、実は自分を守っている。

かなり高度な防御なのである。

だから私は時々、

「私なんてまだまだ攻撃」

と呼びたくなる。

自分を低くすることで、

相手に、

「そんなことないよ」

と言わせる。

相手を褒めることで、

自分は安全な弟子席に座り続ける。

しかも見た目は謙虚だから、批判されにくい。

これはなかなか手強い。

自信がない人ほど、プライドが高いことがある

一般に、

プライドが高い人というと、

偉そうな人。

自信満々な人。

人の話を聞かない人。

そういう姿を想像する。

けれど、

プライドにはもう一つの姿がある。

「できない自分を見られたくない」

という形だ。

失敗したくない。

恥をかきたくない。

下手だと思われたくない。

知らないと思われたくない。

注意されたくない。

期待して挑戦して、

それでも駄目だった自分を見たくない。

だから、

最初から本気にならない。

「そこまで興味がなかった」

「私には合わなかった」

「環境がよくなかった」

「教え方が合わなかった」

そういう理由を用意する。

すると、

結果は出なかったとしても、

自分そのものが否定されたわけではない

という物語を保つことができる。

この意味では、

自信のなさとプライドの高さは、

決して反対ではない。

むしろ同じ根から生えていることすらある。

何を、そこまで守っているのだろう

しかし、ここで一つ疑問が湧く。

そこまでして、何を守っているのだろう。

自尊心。

自己イメージ。

「私は悪くない」という物語。

「私は傷つけられた側だ」という立場。

「本当の私はもっとできるはず」という可能性。

まだ証明されていない自分。

それらを守るために、

挑戦を避ける。

厳しい人を避ける。

自分を問われる場所を避ける。

耳の痛い話をする人から離れる。

代わりに、

褒めてくれる人を探す。

共感してくれる人を探す。

「あなたはそのままでいい」

と言ってくれる場所を探す。

もちろん、

安心できる場所は必要だ。

人間はずっと緊張の中では生きられない。

傷ついたときに休む場所も必要だ。

ただ、

安心することと、成長しなくていいことは同じではない。

ここを混同すると、

人生は少しずつ狭くなる。

傷つかないことを基準にすると、未来は小さくなる

本来、未来を考えるとき、

私たちは、

「何をしてみたいか」

「どんな人になりたいか」

「何をつくりたいか」

「誰とどんな世界を生きたいか」

と考える。

ところが、

自己防衛が人生の中心になると、

問いが変わる。

何をしたいか、ではない。

どこなら傷つかないか。

誰といたいか、ではない。

誰なら私を否定しないか。

何を学びたいか、ではない。

どこならできない自分を見られずに済むか。

そうして、

失敗しない場所。

注意されない場所。

褒めてもらえる場所。

自尊心を脅かされない場所。

そんな場所だけを選ぶようになる。

確かに、傷は減るかもしれない。

しかし同時に、

未来の可能性も減っていく。

自尊心は守られる。

そのかわり、

人生そのものが小さくなっていく。

謙虚さとは、自分を小さく見せることではない

本当の謙虚さは、

「私なんて駄目です」

と言うことではないと思う。

まして、

相手を必要以上に持ち上げることでもない。

謙虚さとは、

自分を実物大で見る力

ではないだろうか。

これはできる。

これはできない。

ここは知っている。

ここは知らない。

今回は私が間違えた。

これは相手のほうが上手だ。

だから教えてもらう。

そして、

できるようになるまでやってみる。

そこには、

卑屈さもなければ、

虚勢もない。

自分を大きく見せる必要もないし、

小さく見せる必要もない。

ただ現実を見る。

それが謙虚さなのだと思う。

怯えた自我は、やがて鎧になる

ときどき、

謙虚さを装ったその衣の下には、

肥大した自我が潜んでいるように見えることがある。

しかし、もう少し深く見るなら、

それは「醜悪な自我」というより、

ひどく怯えた自我

なのかもしれない。

傷つきたくない。

否定されたくない。

価値がないと思われたくない。

その恐怖から、

一枚ずつ防具を重ねていった。

「私なんて」

という防具。

「向いていません」

という防具。

「環境が悪い」

という防具。

「私は傷つけられた」

という防具。

そして気づけば、

鎧が厚くなりすぎて、

外から何も入ってこなくなる。

忠告も入らない。

新しい知識も入らない。

誰かの率直な言葉も入らない。

そして最後には、

自分自身の声まで聞こえなくなる。

人間には、本来、前へ出ようとする力がある

人間には本来、

知りたい。

やってみたい。

上手くなりたい。

世界に働きかけたい。

何かを生み出したい。

という生命力がある。

子どもを見ているとよく分かる。

転んでも立つ。

できなければ何度もやる。

知らなければ聞く。

最初から、

「失敗したら自尊心が傷つくからやめておこう」

とは考えない。

ところが大人になるにつれて、

私たちは傷つかない方法を覚えていく。

そして自己防衛が強くなりすぎると、

本来なら未来をつくるために使われるはずだった生命力が、

自分を守ることだけに使われ始める。

人にどう見られるか。

否定されないか。

恥をかかないか。

傷つかないか。

その監視に、

膨大なエネルギーを使う。

これは、あまりにも惜しい。

能力が足りないことより、

ずっと惜しい。

能力なら育てられる。

知らないことなら学べる。

経験なら積める。

しかし、

成長することそのものを脅威だと感じるようになれば、

自分から可能性の扉を閉めてしまうからだ。

守ることより、生きること

自尊心は必要だ。

自分を粗末にする必要はない。

誰かに傷つけられ続ける場所に、

無理して居続ける必要もない。

でも、

自尊心を守ることと、

自分の人生を守ることは、

いつも同じではない。

ときには、

少し恥をかくこと。

できない自分を認めること。

知らないと言うこと。

注意されること。

失敗すること。

それらを通らなければ、

辿り着けない場所がある。

だから、

「私なんてまだまだです」

と言いたくなったとき、

一度だけ自分に聞いてみたい。

私は本当に謙虚なのだろうか。

それとも、

失敗しない場所へ隠れようとしているのだろうか。

そしてもう一つ。

私は今、何を守ろうとしているのだろう。

その小さな自尊心を守った先に、

本当に行きたい未来はあるだろうか。

人間は、

傷つかないためだけに生きているわけではない。

知らなかった世界を知り、

できなかったことができるようになり、

誰かと関わり、

失敗し、

それでももう一度立ち上がりながら、

少しずつ自分の世界を広げていく。

そのために生きている部分もあるのだと思う。

だから最後には、

自分を守るために築いた鎧を、

一枚くらい脱いでみてもいい。

その下に残っているのは、

傷つきやすい自我だけではない。

まだ世界へ向かって伸びようとしている、本来の生命力なのだから。

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