あぐり
「私ばっかり」の請求書 ――被害者になる舞台を、自分で整えていないか
「もう、私ばっかりなんです」
40代の女性から、そんなご相談がありました。
結婚して15年以上。
子どもはいません。
ご自身も働いています。
外から見れば、安定した夫婦に見えるかもしれません。
けれど家では、
料理もする。
洗濯もする。
掃除もする。
細かなことに気づくのも自分。
夫は、ほとんど何もしない。
マンションの上の階から騒音がしたときも、
「ちょっと話をしてきてくれない?」
と頼んだところ、
夫は一度訪ねて、
「留守だった」
と帰ってきた。
それで終わり。
テレビをつければ、
夫の好きな野球ばかり。
「私が何を見たいかなんて、考えたこともないんじゃないでしょうか」
そう話しながら、
彼女は言いました。
「私ばっかり気を遣って、私ばっかり家のことをして、もう疲れました」
この話だけを聞けば、
「では、ご主人と家事を分担しましょう」
「もっと話し合いましょう」
という助言になりそうです。
けれど私は、
その前に見るものがあると思いました。
本当に、夫が全部押しつけたのだろうか
話を聞いていくうちに、
彼女自身が、少し不思議そうに言いました。
「考えてみたら、夫に『全部あなたがやって』と言われたわけじゃないんです」
最初は、
自分がやったほうが早かった。
気づいたから片づけた。
夫がやらないから料理した。
気になるから掃除した。
テレビも、
「まあいいか」
と譲った。
一つ一つは、
たいしたことではなかった。
ところが、それが15年続いた。
そしてある日、
心の中に巨大な請求書が出来上がっていた。
私はこれだけやった。
私はこれだけ譲った。
私はこれだけ気を遣った。
だから、
あなたも何か返してよ。
これが、
「私ばっかり」の正体だったのかもしれません。
「我慢の請求書」は、後から発行される
厄介なのは、
我慢している最中には、
自分でも我慢だと気づいていないことです。
「このくらい普通」
「私がやれば済む」
「別にたいしたことじゃない」
そう思って引き受ける。
けれど、本当は好きでやっていたわけではない。
本当は少し嫌だった。
本当は手伝ってほしかった。
本当は今日はやりたくなかった。
本当は私もテレビを選びたかった。
その小さな「本当は」が、
何年も飲み込まれていく。
そして限界に達したところで、
突然、
「私はこんなにしてあげたのに」
になる。
これを私は、
「我慢の請求書」
と呼びたいと思います。
問題は、
相手がその請求書の存在を知らないことです。
自分で引き受け、
自分で我慢し、
自分で積み上げたものを、
ある日突然、
「あなたが払うべきです」
と差し出す。
もちろん、
家事をしない夫にも問題はあるでしょう。
相手への配慮が薄いこともあるでしょう。
でも、
相手の問題と、自分が我慢を積み立ててきたことは別の話です。
被害者ストーリーには「舞台装置」がある
ここから、少し厳しい話になります。
「私は何もしてもらえない」
「私だけが頑張っている」
「夫は何も考えてくれない」
そう語るとき、
物語の中では、
自分は被害者です。
夫は加害者になります。
けれど、
その物語が成立するまでに、
自分は何をしてきたのでしょう。
嫌なのに引き受ける。
頼まずにやる。
譲る。
黙る。
察してもらうのを待つ。
そして、
相手が察しなかったときに傷つく。
つまり、
本人にそんな意図はなくても、
「私ばっかり」になるための舞台装置を、自分でも整えてしまっていた
ということがあります。
これは、
「あなたが悪い」
という話ではありません。
もっと重要な話です。
自分が舞台を作っていたのなら、自分で舞台を降りることもできる。
ということです。
ペンタクルのナイト・正位置
そこで、
「この状態をどうしたらいいでしょう」
とタロットを引きました。
出たのは、
ペンタクルのナイト・正位置。
ペンタくるを胸の前にかざして鎧に身を固めた騎士が馬に跨っています。
黒い馬はじっとしています。
ずっしりと体にまとった鎧の正体はなんなのか?
ペンタクルの黄金の光が騎士に語りかけているようです。
鎧に身を固め走り回ってきたこを見つめ直してみようと。
ペンタクルは習慣と言う意味もあります。
まず、
自分がどんな役を繰り返しているのかを見ること。
そこです。
被害者が変わらなければ、物語は続く
仮に、
明日から夫が皿洗いをするようになったとします。
洗濯もしてくれる。
テレビも譲ってくれる。
それで問題が全部解決するでしょうか。
もし、
彼女自身の中に、
「嫌でも引き受ける」
「自分より相手を優先する」
「言わずに察してもらおうとする」
「そして報われなければ傷つく」
という型が残っているなら、
また別の場面で、
新しい「私ばっかり」が始まるでしょう。
職場で。
友人関係で。
親族との関係で。
別の家事で。
登場人物と舞台装置が変わるだけです。
だから、
家事分担より先に、
見るべきものがある。
私はなぜ、嫌なのに引き受けるのか。
私はなぜ、言わずに我慢するのか。
そしてなぜ、その我慢を相手への請求書に変えるのか。
ここに気づいて初めて、
夫との話し合いにも意味が出てきます。
「私ばっかり」と思ったら
「私ばっかり」
という言葉が出てきたら、
相手を責める前に、
一度こう聞いてみてください。
私は今、何を我慢している?
そして、
もう一つ。
誰が、それを我慢しろと言った?
もちろん、
言えない事情があることもあります。
力関係によっては、
簡単に断れないこともあります。
けれど、
少なくとも今回のように、
自分でも気づかないうちに引き受け続けていることなら、
一度立ち止まってみる。
被害者ストーリーから降りるというのは、
「全部私の責任でした」
と自分を責めることではありません。
むしろ反対です。
誰かに何かをされたと言う被害者意識の人生から、
自分が何を選ぶかを決める人生へ戻ること。
我慢してから、
請求書を突きつけるのではなく。
請求書が生まれる前に、
自分の本音に気づく。
今回のペンタクルのナイトは、
その静かな方向転換を、
促しているように思います。






