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あぐり

まず、美しいものを知る ――人間の成長に最も必要な「畏敬」という感覚

先日、ある人のブログを読んでいて、

とても印象に残ったことがありました。

霊的な修行において、

最初に取り組むものは、

瞑想でも、

呼吸法でも、

視覚化でもない。

「敬うこと」なのだ

という話です。

シュタイナーは、

高い認識へ向かう道の入口に、

畏敬の念を養うこと

を置いたといいます。

これを読んで、

私はとても腑に落ちました。

なぜなら、

古神道の世界でも、

まず大切なのは、

何か特別なものが見えることでも、

神秘体験をすることでもなく、

正邪真偽を見分ける感覚を養うこと

だからです。

「見えること」と「見分けられること」は違う

目に見えない世界というものを考えるとき、

私たちはつい、

「何が見えるのか」

「何を感じられるのか」

「どんな存在とつながれるのか」

ということに興味を持ちます。

けれど、

もし何かを感じ取れたとしても、

それが本当に尊いものなのか。

自分を良い方向へ導くものなのか。

ただ強烈なだけなのか。

自分の欲望や恐怖が、

何か別のものに見えているだけなのか。

そこを見分けることがとても大事になってきます。

古神道では、

正邪真偽の区別がつかないまま、

見えないものへ近づくことを警戒します。

何か見えた。

声が聞こえた。

強い力を感じた。

だから尊い。

とは限らないからです。

むしろ、

強いものと、尊いものは違う。

珍しいものと、

真なるものも違う。

だからこそ、

先に必要なのは、

目に見えない不思議なな能力ではなく、

何を美しいと感じ、
何を尊いと感じ、
何に頭を垂れることができるかという感性

なのだと思います。

良いものを知らなければ、悪いものも分からない

これは、

目に見えない世界の話だけではありません。

たとえば、

一度も本当に美味しいものを食べたことがなければ、

何が美味しくて、

何がそうでもないのか、

基準そのものが育ちません。

音楽でもそうでしょう。

良い演奏を何度も聴いている人は、

音が少し崩れただけでも、

「あれ?」

と感じることがあります。

美術でも、

文章でも、

所作でも、

同じです。

良いものに触れていると、

頭で分析する前に、

身体のどこかが知っている。

「これは違う」

という感覚が生まれてきます。

反対に、

基準を持っていなければ、

派手なもの。

強いもの。

刺激的なもの。

珍しいもの。

そうしたものに、

簡単に心を奪われてしまう。

だから昔は、

幼い子どもにも、

できるだけ良い器を使わせる、

美しいものに触れさせる、

という考え方がありました。

たとえば、

銀の食器を使わせる。

美しい着物を見せる。

質の良い音を聴かせる。

良いものを知ることが、

そのまま、

感覚の物差しをつくる

からです。

畏敬とは「自分より上を知ること」

畏敬という言葉を聞くと、

少し堅苦しく感じるかもしれません。

けれど

畏敬とは、

「自分より大きなものがある」と知っている感覚

なのだと思います。

長い年月を生きてきた樹。

何百年も受け継がれてきた芸能。

先人が残した技。

途方もない時間をかけて形成された山。

夜空。

海。

神社の御神木。

あるいは、

本当に優れた師匠や、

尊敬する研究者。

そういうものを前にしたとき、

「ああ、自分はまだ何も知らないな」

と感じる。

その瞬間、

人は少しだけ、

自分中心の世界から離れます。

自分の知識。

自分の評価。

自分の損得。

そこを越えたものへ、

目が向く。

それが、

畏敬の始まりなのかもしれません。

畏敬の対象は、進む方向を教えてくれる

そして面白いのは、

自分が何を敬うかを見ると、
自分がどちらへ進みたいのかも見えてくる

ことです。

ある人は、

誠実に仕事をする人を尊敬する。

ある人は、

美しいものを生み出す人に惹かれる。

ある人は、

静かな強さを持つ人を敬う。

ある人は、

何百年も受け継がれてきた文化に、

自然と頭が下がる。

そこには、

その人自身がこれから育てていきたいものが、

映っていることがあります。

つまり、

畏敬の対象は、人生の方角を示す羅針盤にもなる。

「こうなりたい」

と頭で考えるより前に、

心が自然と頭を下げるもの。

そこに、

その人の進む方向が隠れていることがあります。

だから、まず良いものに触れる

何かを学びたい。

感性を磨きたい。

自分を成長させたい。

そう思ったとき、

すぐに方法論へ行く必要はないのかもしれません。

まず、

良いものを見る。

美しいものを見る。

優れた人に会う。

長く残ってきたものに触れる。

本当に美味しいものを食べる。

心が静かに頭を下げたくなるものを、

自分の中へ入れていく。

それが、

知らず知らずのうちに、

自分の感覚器官を育ててくれます。

何が本物なのか。

何が美しいのか。

何が少し違うのか。

その判断は、

本やマニュアルからだけでは身につきません。

何度も、

良いものに触れることで、

身体の中に基準ができていくのだと思います。

……ということは、

奥さんに、

もっと美味しい料理を作ってほしいと思ったら、

まず、

美味しいレストランへ連れていくことです。

「もっと上手に作ってよ」

と言うより、

よほど効果があるかもしれません(笑)。

人は、

知らない美味しさを、

再現することはできません。

知らない美しさも、

目指すことはできない。

だから、

自分自身にも同じことが言えます。

良く生きたいと思うなら、

良いものを見る。

美しくありたいと思うなら、

美しいものに触れる。

尊いものを見分けたいなら、

まず、

本当に尊いものの前で、
一度きちんと頭を下げてみる。

それが新しい人生への扉かもしれません。

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