あぐり
梅の香りが迎えてくれる――雨の季節を楽しむ梅仕事
梅雨というと、ただ雨の降り続く、少し憂鬱な季節として思われてしまいがちです。
空は灰色に曇り、洗濯物はなかなか乾かない。
湿気を含んだ空気に、心まで重たく感じられる日もあります。
けれど梅雨は、梅の実が熟し、梅仕事が始まる季節でもあります。
「雨」という字に「梅」と書いて、梅雨。
この言葉を眺めていると、昔の人は、雨の続く時期をただ耐えるべき季節としてではなく、この時期だからこそ行う大切な仕事のある季節として、受け止めていたのではないかと思えてきます。
自然を自分たちの都合に合わせようとするのではなく、その季節に訪れる恵みを受け取り、暮らしの仕事へと変えていく。
梅仕事には、そんな昔ながらの智慧が息づいています。
梅干しに使う梅は、青く硬いものよりも、黄色く熟したものが向いています。できれば、木の上で十分に熟し、自然に落ちた完熟梅がよいともいわれます。
青梅を手に入れたときには、すぐに塩漬けにせず、平たいざるなどに広げて、数日間、実が黄色くなるのを待ちます。
この「待つ時間」が、梅仕事の楽しみのひとつです。
待つことが、これほど楽しいものだったとは。
毎日、ざるに並んだ梅を眺めます。
「昨日よりも少し黄色くなった」
「ずいぶん香りが強くなってきた」
「そろそろ漬けどきだろうか」
梅の色や香りの変化に気づくたび、心が少し弾みます。
忙しい日々の中では、私たちは待つことを、何も進んでいない時間のように感じてしまいがちです。
早く結果を出したい。
早く答えを知りたい。
できるだけ無駄なく、効率よく進めたい。
けれど、梅はこちらの都合では熟してくれません。
梅自身の時間に任せ、その色と香りが「今です」と知らせてくれるのを待つほかありません。
梅仕事とは、何かを急いで完成させる仕事ではなく、梅の内側でゆっくりと進んでいる時間に、耳を澄ませる仕事なのかもしれません。
そして、追熟している梅には、もうひとつ大きな楽しみがあります。
仕事を終え、湿った雨の中を帰宅する。
玄関の扉を開けた途端、部屋いっぱいに、熟した梅の甘い香りが漂っている。
桃のようでもあり、杏のようでもある、どこか懐かしく、言葉では言い表しにくい香りです。
雨に濡れ、少し疲れて帰ってきた日には、それが本当に感動的なお出迎えに感じられます。
香りによって呼び覚まされる記憶は、ほかの記憶よりも鮮明で、懐かしさや安心感を伴いやすいといわれています。
梅の香りを嗅いでいると、遠い幼い日の記憶が、ふいに浮かんできます。
祖母は毎年、たくさんの梅を漬けていました。
大きな茶色い甕に梅を入れ、その上から塩を振っていく。
梅を傷つけないように、ひとつひとつ丁寧に扱う祖母の手。
その姿は真剣でありながら、どこか楽しそうでもありました。
当時の私は、祖母が何を考えながら梅を漬けていたのか知りません。
けれど今、自分が梅をざるに並べ、その香りを楽しみに待っていると、祖母もまた、こうして季節の移ろいを味わっていたのではないかと思います。
祖母から梅の漬け方を細かく教わった記憶はなくても、その姿や手つきは、知らないうちに私の中に残っていたのでしょう。
暮らしの智慧は、言葉だけで受け継がれるものではありません。
台所に立つ後ろ姿。
梅を扱う手のやさしさ。
甕の中をのぞき込むときの表情。
そうした何気ない姿を通して、次の世代へと静かに渡されていくものもあります。
梅仕事をしていると、雨の日の意味も少し変わってきます。
雨が降っている間にも、塩に漬けた梅からは少しずつ梅酢が上がり、梅はゆっくりと味を深めています。
やがて梅雨が明ければ、強い夏の日差しの下で土用干しをする日がやってきます。
今降っている雨も、梅が熟し、夏へ向かうために必要な時間なのだと思えば、憂鬱だった雨音さえ、少しやさしく聞こえてきます。
梅雨を無理に好きになる必要はないのかもしれません。
ただ、その季節にしかできない仕事をひとつ持つ。
梅の色づきを眺め、その香りを楽しみ、手を動かしながら、遠い記憶に心を遊ばせる。
それだけで、雨の季節は、ただ過ぎ去るのを待つ時間ではなくなります。
梅雨は、梅の実が熟す季節。
そして梅仕事は、季節の恵みと、過ぎ去った人々の記憶を、未来の食卓へと手渡していく仕事なのです。






